ストーリー
堀田宝飾の初代から受け継がれるジュエリーへの想い
山梨は全国シェアの約2割を占める国内有数のジュエリー産地である。宝石の研磨加工や貴金属加工、国内外への流通など、ジュエリーに関するあらゆる業務が集中する、世界的にも珍しい集積産地です。
その地に堀田宝飾の前身である「堀田水晶研磨工業所」が開設されたのは昭和10年のことでした。
創業者の現在社長を務める堀田一昭の祖父である八十吉(やそきち)は、水晶研磨技師でした。伝統的な水晶研磨も技術を身につけ様々な水晶加工品を生み出していきました。
また、常時2〜3人の弟子を抱えていて、水晶研磨産地発展にも寄与しました。
しかし、時代は戦後の高度成長期を迎え水晶の加工は機械化が進み、また、海外から安価な水晶が入ってくることによって、産地の役割も大きく変わろうとしていました。
そのような時代の中、堀田宝飾も新たな時代を迎えました。
昭和41年、創業者八十吉の長男である一(はじめ)が入社し、伊勢の真珠加工業者との取引が始まりました。
今でも、真珠の有力産地である伊勢志摩地方は当時から大きな産地でありましたが、ブローチなど装身具(金具)に高いデザイン性や品質を必要としており、そこに目をつけた一は自らの高い加工技術を活かし新しい分野に進出していきました。
そして昭和45年、「株式会社堀田宝飾」が設立され、堀田一が初代社長に就任。
当初は装身具を提供することが中心であったが、真珠の需要がお土産などのファッション価値の高い物に移り変わることをいち早く察知した一は、装身具を提供するのではなく、逆に、真珠を仕入れて完成品を製作するようになりました。
これによって、顧客の求める高いデザイン性を追求し高品質な製品をタイムリーに市場に投入できるようになりました。
創業当時から真珠製品にこだわりを持ってきた堀田宝飾は、品質の追求と顧客の要求に応える姿勢により、堅実に顧客の支持を広げて行きました。
しかし、そんな堀田宝飾でもバブル崩壊で大きな影響を受けました。
そんな時代、1993年に現社長、堀田一昭が堀田宝飾に入社し、1998年に社長に就任しました。
一昭は言う「真珠は日本が世界に誇る一大アイテムだ」
バブルの崩壊で国内市場は衰えたが、海外の市場ではまだまだチャンスがあると確信していた。堀田宝飾の品質なら海外でも充分に受け入れられるはずだ、と。
そして、その言葉は本当のこととなった。堀田宝飾の商品は海外の顧客に受け入れられました。
しかし、一昭は市場の開拓には一定の制限を設けました。
それは、多くの方に使って欲しい、と言う想いと同じくらい、自社の製品に自信を持って提供できる高い品質を維持することでありました。
価値ある製品を直接お客様に届けたい。